皆さんお待たせいたしました! 事務機器ねっとで取り扱っているメーカー各社の、創業者シリーズ第二弾です。デジタルカメラの最大手で、長い歴史と確かな技術が備わる商品を売り出す企業、キヤノン。カメラを趣味にしたいと考えていた場合、このメーカーは必ず選択肢に入れるでしょうね。今回はあなたもご存じのキヤノンの歴史や創業者の方々をご紹介いたします。
<目次>
・Canonのルーツ
・Canon創立に携わった昭和の二人の偉人
・偉人① 吉田五郎(よしだごろう)
・偉人② 御手洗毅(みたらいたけし)
・御手洗毅のエピソード
・医者の素人経営だからこそ
・目指すは世界一の品質。世界へ羽ばたくブランド
・実力主義と家族主義
Canonのルーツ
1932年、日本にライカ(※1)が輸入されて間もない頃に、後にキヤノン創業者のひとりとなる吉田五郎氏がライカⅡ型を購入し、その模倣品を製作しました。その模倣品を持ち、義弟であった内田三郎氏の元を訪ね、ライカに匹敵する高級カメラ製造事業を熱心に勧めましたが、この時は断られてしまいました。しかし、翌年「資源が少ない我が国では、材料の原価に占める割合が少なく、例えば光学機密機械や純度の高い化学工業が有望である」という知り合いの事業観に接し、カメラ製造を決意します。3年もの研究期間を設定し、1933年11月に吉田五郎氏発案の「精機光学研究所」を立ち上げたのがキヤノンのルーツになります。
カメラ開発は吉田五郎氏、経営費や開発費などの工面は内田三郎氏が担当していました。1933年、国産で初めての35ミリフォーカルプレーンシャッターカメラ「Kwanon(カンノン)」を試作しました。そして、1934年に完成した日本産初の精密小型カメラの試作機を、観音菩薩の慈悲にあやかりたいという気持ちから、「KWANON」(カンノン)、そのレンズをKASHAPA(カシャパ※2)と命名しました。
キヤノンの社名の由来はこちらからご覧ください!
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※2カシャパは釈迦の弟子である大迦葉(梵:マハーカーシャパ)に由来しています。
Canon創立に携わった昭和の二人の偉人
偉人①〜来歴・人物像〜
吉田五郎(よしだごろう)
1900年〜1993年
広島県福山市出身
小学生の頃からカメラを分解し組み立てることが好きなカメラ少年だったそうです。カメラの分解が好きすぎて、福山中学(現在:福山誠之館高校)を中退してまで上京するという行動力の持ち主でした。機械知識を生かして光学精密機械の輸入商社に出入りしたことがきっかけとなり、映画の世界に入り込み、映写機関係の仕事をしていました。当時映写機は全て外国製だったのですが、アメリカの商人から「お前の国には素晴らしい軍艦がある。あれだけの軍艦を作れるのだったら、映写機が作れないなんてことないだろ」とからかわれたことがきっかけとなり、血気盛んな20代の吉田五郎氏は、「潜水艦でもなんでも作れるのに、あんなライカみたいなちっぽけなカメラを作れないわけはない」と奮起したそうです。これがカメラ作りの動機と原点でした。
1934年、「Kwanon(カンノン)」が雑誌アサヒカメラ6月号の広告に掲載されました。キャッチフレーズは「潜水艦は伊号、飛行機は九二式、カメラはKwanon、皆世界一」という中々に勇ましい広告の図案・文案を吉田五郎氏は作成しました。しかし、カメラ開発担当の吉田五郎氏から、製品の完成の連絡は一向にありませんでした。創業相手の内田三郎氏の不信感も高まります。さらに、内田三郎氏に使途不明金を追及されたこともあり(のちに濡れ衣と判明)わずか一年で研究所を去ってしまいました。退所後は吉田研究所を開き、初めて国産ライカを作った男として評判になり、空襲が起きてしまうまで外国製映画用撮影機材の改造や修理を請け負って働いていました。そして、戦後はアキハバラデパートで外商の売掛金の集金係として晩年まで働いたそうです。
※文章参考:Wikipedia ※画像出典:キヤノンカメラミュージアム
偉人②〜来歴・人物像〜
先程ご紹介した、キヤノンのカメラの生みの親である吉田五郎氏は、研究所を1934年の9月末に退所してしまいます。
そこで2人目の登場人物、御手洗毅氏をご紹介いたします。
御手洗毅(みたらいたけし)
1901年〜1984年
大分県南海部郡蒲江町(現在:佐伯市)出身
実家は代々医師の旧家で、御手洗毅氏は北海道大学医学部を卒業し、上京後は日本赤十字病院に勤務していました。1933年、吉田五郎氏や内田三郎氏らの創設した精機光学研究所に共同経営者として参画します。内田三郎氏とは産婦人科医として内田夫人の出産を通して親交が始まったそうです。吉田五郎氏の退所後、内田三郎氏もシンガポールに赴任するなどしたため、1942年初代社長として御手洗毅氏が就任します。
太平洋戦争の影響により、御手洗毅氏の産婦人科病院は消失し、戦争終了後はキヤノンの経営に注力しました。医師であった経験から、医療用機器の開発を推進し、開発・製造の原点となりました。1974年に社長の座を譲り、1977年に名誉会長に就任されました。
御手洗毅氏のエピソード
医者の素人経営だからこそ
内田三郎氏の赴任に伴い社長に就任した御手洗毅氏。社長として会社の内情を知っていくと、いい加減な幹部がいたりと問題がてんこ盛り状態でした。しかし元々の職業は医師である御手洗毅氏はカメラの技術も会社の経営も全く分からない、経営者としては素人だと痛感したそうです。そして彼はこう発言しました。
「自分は諸君がご存じの通り医師の出身だ。もし僕を騙そうとすれば、それは諸君にとって赤子の手を捻るようなもので、いとも簡単にできる。僕は君たちを信用する以外にない。経理の担当者が帳面を誤魔化そうと思えばできるし、工場長が1万円の機械を1万5千円で買ったことにしても、僕はその機械の価値がその値段に適しているのかも分からない。しかしそんなことをやっていけば、会社が潰れることは明らかだ。そしてその責任は社長の私にある。私共々この会社を繁栄させていこうと思えば、みんなが誠心誠意やる以外ないではないか。」
この発言、自分の欠点を先に曝け出してしまう逆転の発想ですよね。意地を張って一人で抱え込んでいても、できなければ始まらないわけですから、社員に「頼む」と言える経営者である御手洗毅氏は、社員を信頼していたのだと思いました。
目指すは世界一の品質。世界へ羽ばたくブランド
戦後の貧乏時代にもかかわらず、「人材さえあれば会社は伸びる」と次々に人材を採用します。「輸出するには漢字よりカタカナが良い」と言い、社名も「キヤノンカメラ」に変更しました。ソニーが世界を意識して「SONY」に社名を変えたのは有名な話ですが、それよりも前にキヤノンは製品の商標に「CANON」を採用しているのです。そして、1967年に「右手にカメラ、左手に事務機」のスローガンを掲げ、キヤノンの多角経営を宣言します。1970年、国産初の普通紙複写機「NP-1100」が発売されました。1972年には世界初の液乾式普通複写機「NP-L7」を発売、1973年は日本初のフルカラー普通紙複写機を発表します。カメラと事務機で次々に世界に名を轟かせました。
実力主義と家族主義
実力主義と家族主義を旨としており、GHQ(Go Home Quickly)などの標語を掲げ、「家族あっての仕事」という当時の日本の企業には珍しい考え方を社員に広めていました。1959年には他社に先駆けて完全週休二日制をキヤノンに導入しました。当時の企業状況を見ても画期的な取り組みだったでしょう。
吉田五郎氏、御手洗毅氏がキヤノンの土台を作り上げてから、1970年から現在までカメラだけでなく、複合機の開発や生産が活発化しました。
当時の普通紙複写機市場は、富士ゼロックス(現:富士フイルム)の独占状態でした。しかし、キヤノンの「NP-1100」が発売され、ゼロックス社の特許網を破ったのです。販売において当時の複合機の多くはレンタル方式でしたが、キヤノン事務機販売は顧客のランニングコストを抑えるために、本体を買い取ってもらう方式を実施しました。複合機にまつわる消耗品やパーツの交換、定期メンテナンス、出張修理などは1枚7.5円の料金を徴収して保証する「TG(トータルギャランティ)システム」を導入したのです。また、コピーの品質を万全にするために、「サービスなきところにセールスなし」という方針でサービス体制を強化し、初の継続的に収益を上げるビジネスモデルのTGシステムを確立させました。前述にもありますが、1972年11月には、キヤノンが世界に先駆けて実用化した液乾式普通紙複写機「NP-L7」を発売しています。NP-1100は採算的には赤字でしたが、NP-L7は見事ベストセラー機となり、複写機事業を軌道に乗せるまで発展しました。近年ではデジタル商業印刷機に本格参入し、2007年にimagePRESSシリーズでお馴染みの「imagePRESS C7000VP」を発売し、日刊工業新聞社第50回十大新製品賞「増田賞」を受賞するなどしています。
キヤノンのルーツや創設の柱の一人である御手洗毅氏の人徳に驚きました。このような考えが引き継がれ、今のキヤノンが成り立っているのだと改めて感じました。
よりグローバルに羽ばたいていくキヤノンの今後に注目ですね!
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