ニュースメディアやテレビのワイドショーでは次の自民党総裁選挙の話題で持ち切りですが、候補者のひとりである河野太郎衆議院議員は、実は現富士フイルムビジネスイノベーション(旧:富士ゼロックス)出身者だったことはご存じでしたでしょうか? そんな巷の話題から、事務機器ねっとで取り扱っているメーカー各社の創業者シリーズ第三弾として、富士フイルムビジネスイノベーションにスポットライトを当ててみましょう。
富士フイルムBIは世界最高速(1989年当時)複写機に始まり、ゼログラフィーという革新的な技術で、現在も複合機業界を盛り上げているメーカーとして、今も昔も高画質・高品質な印刷の代表格と言っても過言ではありません。今回は同社創設者と現在の経営者の歴史の流れをご紹介いたします。
<目次>
・Fuji Xerox(FUJIFILM)のルーツ
・創設者 小林節太郎氏
・Fuji Xeroxの誕生
・Fuji Xeroxのあゆみ
・現在
Fuji Xerox(FUJIFILM)のルーツ
創設者 小林節太郎氏
明治32年11月7日兵庫県で生まれ、実家は自作農だったそうです。小林節太郎氏の父親は洋靴を買ったり、英国製の自転車を買うなど、世の中の先端を取り入れることが好きな人でした。
中学校への進学を志していた頃に彼の母親が病気で倒れ、その年の入試を断念せざるを得ず、仕方なく高等小学校へ進みました。そんな時、彼の父親は「何も中学に行くだけが道ではない。大きくなったらアメリカへでも行って羽を伸ばしたら」と慰めてくれたそうです。この言葉が、小林節太郎氏にとって海外へ出るという根強い希望を持ち続けさせた決定的な言葉となります。向上心と学ぶ意欲の強い小林節太郎氏でしたが、ようやく就職した会社である鈴木商店は昭和恐慌の影響を受け倒産し、中堅の貿易商社であった岩井商店に入社後、わずか5ヶ月で関東大震災が起きてしまい、横浜支社から神戸支社に移籍しました。そして岩井商店では、大日本セルロイド(現:株式会社ダイセル)の製品、すなわち、セルロイド生地とその加工品の輸出を担当していました。
1927年、この年の初め、元横浜支店長から「海外に行かないか、ニューヨークでもロンドンでもいい」と内示を提案されます。まだ世界経済の中心はロンドンにあり、ニューヨークは何か新興的なところだ、という理由からロンドン行きを決意しました。
当時フィルムと言えば、コダック(現:イーストマン・コダック)かアグフア(現:アグフア・ゲバルト)が殆どで、日本製品ができるなどとは考えられないという時代でした。そのような状況の中、大日本セルロイド(現:株式会社ダイセル)の写真フィルム部が独立することになり、小林節太郎氏に「営業を担当せよ」という突然の転任の知らせがきたのです。そして、帰国した翌年の1934年に富士写真フイルム株式会社(現:富士フイルム)が設立されました。
富士写真フイルムの営業形態は、初め東洋乾板(高橋写真フイルム)のセールスマンが、そのまま横滑りしていたので、旧態依然とした商法でした。地方から写真師の団体を工場見学に招待し、客引き同然で静岡辺りまで出かけて団体客の奪い合いをし、上京してからは宴会攻めという状態。「このままではどうにもならない。フィルムというのは、客が手に取って分かるものではない、使ってみて初めて品質が分かる。品質に対する顧客の信用が必要。」と、小林節太郎氏は営業の責任者として、セールスマンたちに真面目にセールスをしようと指導をしました。しかし、折角大量に売り込んだフィルムが膜剥がれを起こしたり、映写中にフィルムが切れたりという事故が相次ぎ、大変な苦情が殺到してしまったのです。
1936年の二・二六事件、1927年の盧溝橋事件から日本が本格的に戦争に突入していく頃、社長以下一丸となった販売努力、そして品質の改善の成果がようやく現れ、会社がやっと黒字になりました。そうして富士写真フイルムは発展期に入り、小林節太郎氏は富士写真フイルム取締役に就任、1960年から11年間勤め上げました。
取締役就任後の小林節太郎氏は日本写真業界初となる公募コンテスト「富士写真フォトコンテスト」の開催や、国内初のカラー映画「カルメン故郷に帰る」のフィルム制作に携わるなど積極的な活動を行い、日本のフィルム業界の躍進へ大きく貢献します。その結果、富士写真フイルム株式会社は世界的フィルムメーカーである米コダック等と肩を並べる程に発展を遂げたのです。
1952年頃、藤沢専務が文献を見ていると、セレン(※1)を使用したセログラフィー技術に気付き、「放って置けない。将来写真と密接な関係を持つようになる。競争会社に特許を持たれると大変だ。」と言い出しました。そして1957年、吉村常務がたまたま日本に訪れていたハロイド・ゼロックス社のクラーク氏と会談したことが、Fuji Xeroxの誕生へと繋がっていきます。富士ゼロックス創業当時、最も慌てさせられたのは、急にレンタル制度を採用することになった点です。理解を得るために広告作戦を取り、創立翌日には朝刊各紙に「今日からコピー革命が始まる」という大胆な1ページ広告を出しました。このように小林節太郎氏は、富士写真フイルムの多角化を行いました。現在では複合機は街角にまで進出してビジネスにはなくてはならない必需品となり、富士ゼロックスの誕生に至ます。富士ゼロックスは驚異的な成長を遂げて来ましたが、これは当初は予想できなかったそうです。
※1…原子番号34の元素。セレンは自然界に広く存在し、微量であれば人体にとって必須元素です。金属セレンは、半導体性、光伝導性があり、これを利用してコピー機の感光ドラムに用いられます。本文:私の履歴書 経済人16 参考
Fuji Xeroxの誕生
1959年、アメリカのハロイド・ゼロックス社(現:ゼロックス・コーポレーション)が世界初の普通紙複写機「Xerox914」を発売しました。これが後にゼログラフィーと呼ばれる電子写真技術を使用したPPC複写機(Plain Paper Copier = 普通紙複写機)です。Xerox914こそ普通紙複写機として姿を現した第一号機であり、これから所謂ゼロックスマシンによるコピー革命時代に入ります。
富士写真フイルムのゼロックス事業への進出は、特許の関係から技術を導入することが当時の富士写真フイルムに対して得である…との判断から、ランク・ゼロックス社(現:ゼロックス・リミテッド)に対し、日本における製造および販売ライセンスの譲渡を申し入れました。
当時ランク・ゼロックス社はこの申し出に対して、まだ技術が未熟でライセンスの譲渡が可能な状況ではないが、将来的に時期が来た場合、最初に富士写真フイルムと交渉すると約束したそうです。1958年ランク・ゼロックス社から「ライセンス交渉を進める時期が来た!」との連絡があり、技術提携交渉が具体化。そして1962年、富士写真フイルムとランク・ゼロックス社との折半出資により、富士ゼロックスが誕生しました。富士フイルムは当初、特許の実施権の譲渡を主張しましたが、ランク・ゼロックス社側の意見を受け入れ、製造については富士写真フイルムが担当し、製品の販売は富士写真フイルムとランク・ゼロックス社が出資した合併会社に任せるということで合意しました。
富士ゼロックスは2年ほど赤字を出しましたが、順調な成長を遂げました。「富士ゼロックスは他の合併企業とはいささか異なった性質を持っているからだ」、と小林節太郎氏は言います。富士ゼロックスの内部は取締10人、監査役2人の内、半数のランク・ゼロックス社側の役員は全て非常勤でした。これは日本の企業という立場をはっきりさせ、企業の意思決定が遅滞なくできる点で大変有利な特色となっています。小林節太郎氏は日本の企業だから日常経営は日本側が行うものと考えていました。そして、相手側のT.A.ロウ社長も富士フイルムのことを信用しており、何事も「やります」「おやり下さい」で決定していたそうです。これが富士フイルムが成長した一つの鍵となっていると言えます。
富士ゼロックスの社名の由来に関してはこちらの記事からご覧ください
Fuji Xeroxのあゆみ
富士ゼロックスは創業以来、最新の技術や情報を手に入れ、それを複合機に取り入れています。
例えば、1972年に国内電話回線のデータ通信利用が自由に開放されました。これにより電話回線をデータ通信に使用することが可能になったのです。この自由化の影響を受け、富士ゼロックスはファクシミリ(ゼロックス・テレコピアll)を販売します。
1997年には、WindowsのPCの普及により、インターネットを利用したビジネスシーンが増えました。その状況に動いた富士ゼロックスは、ネットワークに対応した複合機「Able3350」を発売。そして翌年は表計算、ワープロなどを一元管理できるソフトウェア「DocuWorks」を発売し、ネット時代の幕開けに柔軟に対応しました。
そして2002年、現在は当たり前となっている「ネットプリント」のサービスを開始しました。セブンイレブンを対象に、業界で初めてコンビニに複合機を設置したのです。これにより、時間帯を選ばず個人文書の取り出しが可能になり、時間の活用が効率的にでき便利になりました。
富士ゼロックスは「ユビキタス・コンピューティング」を提唱していました。身の回りのあらゆる物にコンピューターが組み込まれ、それらが協調して人々の活動を支援していくと言うことです。富士ゼロックスの製品を使用したユーザーが、PCやインターネットを過剰に意識することなく利用できる未来を考え、様々な製品・サービスの開発に取り組んできました。この「ユビキタス・コンピューティング」は富士フイルムビジネスソリューションとなった現在も同社の礎となっております。
現在
2018年に富士フイルムによるアメリカ・ゼロックスへの買収提案が頓挫し、その翌2019年に富士ゼロックスの完全子会社化が発表されました。富士ゼロックスを完全子会社化することで、アメリカで認知度の高いゼロックスのブランド名が使用できなくなりましたが、富士フイルムのブランドを使用した製品の販売が可能になり、年間100億円も支払っていたブランド使用料金もなくなりました。
コロナ禍のテレワークで印刷業界の需要が落ち込む中、富士フイルムビジネスイノベーション社長の真茅久則氏は、こう述べております。
ゼロックスとの契約が終了したことにより、富士フイルムビジネスイノベーションで開発を続けてきた技術を次に活かすことが可能になります。
以前までは様々な制約があり、難しいことも多くありました。かなり以前より、手書きの文字を高精度で読み取るAI技術などの研究を進めてきており、自然な文章を生成するOCR技術を所持しております。当社の複合機はアメリカの基準に準拠したセキュリティがあり、クラウド連携の利便性も高く、この様な長所を生かし顧客にソフトを提供していきたいです。
顧客の働き方もコロナ禍によって変わってきています。従来の複合機は印刷のスピードの速さや壊れにくさが求められていましたが、それだけでは多様な働き方に対応できません。オフィスに届くファックスを自宅で確認・返信ができる「ペーパーレスファックス」や、クラウド上での文書管理が可能な「ドキュワークス」サービスを提供しています。働き方の変化から生まれる需要を捉えるという意味で、ビジネスチャンスはたくさんあります。私の使命は会社をスピーディに変革し、良い会社にしていくことです。
(週刊東洋経済Plus 引用)
真茅久則氏の「働き方の変化から生まれる需要」に、富士フイルムビジネスイノベーションの柔軟な考え方が伺えました。これは、何事も「やります」「おやり下さい」という初代取締役の小林節太郎氏が実行してきたとと繋がっているのでしょう。富士フイルムビジネスイノベーション(BI)が成長をし続けた理由は原点にあるのかもしれません。
2021年4月の社名変更の際に発売している新生「Apeos」。この複合は多様性の時代に活躍する複合機です。新しい生活様式に柔軟に対応する富士フイルムは、富士ゼロックスの頃から大切にしてきた、「ユビキタス・コンピューティング」の考えを持ち、進み続けています。
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