アメリカの企業「ゼロックス」といえば複合機の代名詞。日本では2021年3月まで富士フイルムビジネスイノベーション株式会社がゼロックス複合機を国内で開発・販売していました。そしてキヤノンと言えば「右手にカメラ、左手に事務機」を掲げていた日本のメーカー。今回筆者は、このゼロックスとキヤノンにまつわる本を、「業界人なら読んでおくべき一冊。」という言葉と共に上司よりいただきました。こちらはNHKで2002年11月5日に放送されたテレビ番組「プロジェクトX 〜挑戦者たち〜」の『突破せよ 最強特許網 新コピー機誕生』の回を書籍化したもの。
実際に読んでみると、国産初の複合機開発に対するキヤノンで関わった人々の熱い思いが伝わり、新しいものを開発し発売するまでの信じられないほどの苦労が赤裸々に綴られていました。ゼロックスに挑戦していく闘志が伝わり、興奮する熱量を感じ、日本人なら誰もが応援したくなる姿が目に浮かびました。
特に私が面白いと思ったポイントは3つ。①田中宏氏のコピー機への熱い情熱、②Eプロジェクトに携わる方々のチーム力、③新商品開発の際に立ちはだかる特許の壁です。
今回は日本人が挑戦する感動のノンフィクション物語を、複合機を使う多くのお客様に届けたいと思い筆を執りました。読み終える時には、あなたもキヤノン複合機のファンになってしまっているかもしれません。ぜひご一読ください!
<目次>
・コピー機の開発に熱を込めた男、田中宏
・あのメーカーが斜陽だった? 複写機に懸ける思い
・ライバルはゼロックス社のみ、特許の壁が立ちはだかる
・Eプロジェクト始動、山あり谷あり苦難の日々
・苦難を乗り越えた3人の社員たち
・変圧器の入手問題
・感光体の謎の穴
・クリーニング装置の黒い粉
・NPシステムの特許が認められない? 特許戦争開始
・世界トップクラスの複写機メーカーへ成長
コピー機の開発に熱を込めた男、田中宏
1960年代、日本は高度経済成長期の波に乗っていました。当時27歳、オリエンタル写真工業(現:サイバーグラフィックス)の技術者である田中宏氏(以下:田中氏)は、電子写真複写装置「オリファックス201」を持ち、自信満々に渡米しました。彼は大学時代の就職活動の際に知った、電子写真の技術に魅せられ複写機の研究に没頭。その後開発したこの「オリファックス201」を世界有数の事務機見本市「ナショナル・ビジネス・ショー」で展示するためにアメリカへやってきたのです。
当時の書類の複写といえば、カーボンやトレーシングペーパーを使って手作業で写し取ることが当たり前でした。しかし、田中氏が開発した電子写真複写装置は、その手間を省き瞬時に書類を「感光紙」に複写できる画期的な製品でした。この技術、実はEF(エレクトロファックス)と呼ばれる感光紙を使った、アメリカのRCA社が開発した技術でRCA社がその特許を公開したため、ライセンス契約を結んでロイヤリティ(使用料)を支払えば誰でも使うことができました。田中氏が開発した「オリファックス201」もEF方式を利用した電子写真複写機です。
この「オリファックス201」は当時としては国内最高の技術でした。この製品をアメリカで発表すれば、大きな商売に繋がり、“オフィス革命”が起こせると確信していたのです。
しかし、ショーで、来場者は「オリファックス201」に目もくれませんでした。来場者がこぞって集まり、人だかりができていた場所には、世界初の普通紙複写機である「ゼロックス914」の存在がありました。ゼロックス914は感光紙でなく普通の紙に複写することができます。普通紙に複写ができるということは書き込みができる上、変色もしにくく、しかも経費が安いと良いことづくしでした。これは革新的なことで、田中氏が持ち込んだ複写装置との差は歴然でした。意気揚々と臨んだビジネスショーは散々な結果となったのです。しかし、ショーの終わりごろには「悔しさ」が「意欲」に変わっていました。田中氏の複写機開発への意欲は失われるどころか、奮起し、「自分も普通紙複写機を作りたい」という目標を見つけたことが、渡米した田中氏にとっての最大の収穫になったのでした。
あのメーカーが斜陽だった? 複写機に懸ける思い
渡米した田中氏が帰国し、しばらくすると会社から「複写機から撤退せよ」という衝撃的な知らせが飛び込んできました。会社が業績不振に見舞われていたためです。複写機に命を懸けようと意気込んでいた田中氏は、進むべき道が失われ会社を退職しました。
その頃、戦前からカメラ一筋「“ライカ”に追いつけ」を合言葉に、世界に通用するトップメーカーに成長していた「キヤノンカメラ」は、カメラの需要が頭打ちになり、国内市場では完全に行き詰まっていました。当時、社内報で「カメラ産業は斜陽産業か」と言われるほど、カメラ一筋では時代に取り残されるという空気が全体に漂っていたのです。1959年にカメラに続く主力製品として期待を込めて発売された、“シンクロリーダー”は「音の出る紙」というキャッチフレーズと共に発売されましたが、全くと言っていいほど売れませんでした。翌年改良品の“シートレコーダー”を発売しますが、これも大失敗。会社は大きな損害を出してしまったのです。
1962年にキヤノンは技術部内に製品研究課を新設します。新しい技術、新しい商品ジャンルに出て行かなければ会社の将来はないだろうという、経営陣の危機感を強烈に受けた部署でした。製品研究課に配属された技術者は6名、その中に田中氏がいました。彼は、この製品研究課が新設される前にキヤノンカメラに再就職していたのです。
ライバルはゼロックス社のみ、特許の壁が立ちはだかる
「普通紙複写機をつくってみせます」面接の場で田中氏は面接官に向かって、そう言いました。当時、すでに普通紙複写機市場はゼロックスの手中にあり、世界シェアは100%。その原動力となった最大の武器は、何者も寄せ付けない鉄壁の「特許網」でした。世界を席巻していた「ゼロックス914」に関する特許は600件以上もあったのです。この特許のうち、一件でも侵害してしまえば賠償金を支払うことになります。世界中の技術者の多くは手出しができないと怯んでいました。しかし、田中氏は違いました。「ライバルは一社だけ、独自の技術で普通紙複写機を作れば、大きなチャンスです」と。多角化に活路を見出そうとしていた斜陽メーカーは、この田中氏の情熱を受け入れました。こうして製品研究課で普通複写機の開発がスタートしたのです。
田中氏が普通複写機を作るためにまず行ったことは、ゼロックス914の技術を把握することでした。ゼロックスの技術の詳細が掲載された特許を知らずに複写機の開発に着手すれば、間違いなく特許権侵害に陥ります。田中氏が向かった先は、会社の特許課でした。
特許課はわずか4人の零細部署。特許に関する事務は全て外部の弁理事務所に委託しており、日々の業務は、社内の技術者から弁理事務所への郵便物の転送処理で、社内では日陰部署でした。その特許課の中で「複写機を作りたい。ゼロックスの特許を取り寄せてほしい」という田中氏の声に一際目を輝かせて反応した男がいました。丸島儀一氏(以下:丸島氏)です。丸島氏は1960年に開発をするつもりでキヤノンに入社しましたが、すぐに特許課に回され、誰にでもできる仕事に飽き飽きしながら、長い1日を過ごしていたそうです。「普通複写機の開発は、技術と特許が一緒にならなければできない仕事で、自分にとってもやり甲斐のある仕事になるに違いないと直感的に思いました。あの時は、すごく嬉しかった。やっぱり、挑戦することがなければ人生はつまらないですよ。」そう丸島氏は言います。配属のことばかり気にかけていた丸島氏は、自らの意思で特許畑に根を張ることを決意したのです。
Eプロジェクト始動、山あり谷あり苦難の日々
会社の将来を左右する事業多角化を担う部署の環境は恵まれていませんでした。モノもカネもない、その状況をカバーするのはマンパワーしかありません。複写機の開発メンバーの人材確保に、田中氏も丸島氏も奔走しました。そして、複写機の開発メンバーには14名の精鋭が集結。1964年、製品研究課は開発本部内の「開発部」に格上げされ、複写機の開発チームには「E(エレクトロフォトグラフィ)プロジェクト」の名称が名付けられたのです。
そんな時、会社が事務用に複写機を導入します。それは「ゼロックス914」でした。それまで輸入するしかなかった普通紙複写機は、1962年にランク・ゼロックスと日本の富士写真フイルムが手を結び、富士ゼロックスが誕生したことによって、国内生産され日本のオフィスに広がっていたのです。「おかげで仕事が楽になった」そう喜ぶ社員の様子を、プロジェクトのメンバーは歯軋りする思いで見ていました。
苦難を乗り越えた3人の社員たち
変圧器の入手問題
ゼロックスの特許で弱い部分は感光体である。それに気づいた田中氏は、「電気を通さない絶縁体で、感光体を覆ってしまおう」というとんでもないアイデアを口にします。しかし、ここで大きな問題が生じます。絶縁体の表面に電気を帯びさせるには、6,000ボルトもの超高電圧が必要でした。そして、開発予算に乏しいプロジェクトには高電圧を出すための変圧器を買う資金すらありません。そこで手を挙げたのは長松克己氏(以下:長松氏)です。長松氏は電気工事店を経営する義父がおり、ネオンを点灯させるためのネオントランスが倉庫に眠っていないか相談しました。ネオントランスがあれば高電圧を出すことが可能です。このとき義父はわざわざ新品の製品を提供してくれ、開発に非常に役立ったといいます。変圧器の問題は解決し、独自の感光体を用いて無事綺麗な像が出るようになりました。これでゼロックス方式とは違う新しい普通紙複写機が作れると思ったのです。
感光体の謎の穴
試作品ND-1が完成し、耐久テストが始まりました。何度も何度もテストをこなしていると、ある時複写した女性の顔に直径5ミリ程の白い斑点が浮かんでいました。機械内部を調べると、原因不明の放電現象が起きていたのです。6,000ボルトの高電圧がまるで雷のような光の筋となり、感光体の一点を直撃していました。感光体担当の戸坂海氏(以下:戸坂氏)は目を疑います。そこからの耐久テストは波乱の幕開けです。たかがピンホール、絶縁体フィルムの本当に小さい穴ですが、プロジェクトにとっては大問題でした。戸坂氏は深夜の2〜3時に会社に呼び出されたり、休日のデパートの店内放送で呼び出されたこともあったそうです。戸坂氏は全国の樹脂メーカーから様々なポリエステルフィルムを取り寄せ、感光体に巻き、1万枚の耐久テストを行いました。しかしどれも全滅。どれだけ高品質のフィルムを使用しても、ピンホールは出現しました。絶望し、会社の退職も考えていた頃、戸坂氏に希望の光が差します。たまたま試した国内製のフィルムがピンホールを防いだというのです。このフィルムは質がいいとは言われていない製品でした。ポリエステルのフィルムで質が良いとされるものは、どの製品でも巻き取りやすいように滑り剤が混ぜてあります。しかし、この国内製のフィルムには滑り剤が入っていません。滑り剤は言い方を変えれば「不純物」でした。謎の放電現象は、この不純物の微粒子を直撃していたのです。滑り剤がないフィルムは、質が悪いのではなく使い勝手が悪いということだったのです。戸坂氏はこの滑り剤を混ぜないフィルムを特注し、1万枚コピーしても放電現象が起きない感光体を作りだしました。
クリーニング装置の黒い粉
次の問題はクリーニング装置でした。複写が終わると複写機からはき出される紙がどんどん黒ずんでいくようになりました。大量のコピーを続けると感光体に残ったトナーを十分にクリーニングしきれなくなることが原因です。クリーニング装置担当の塚田修生氏(以下:塚田氏)は感光体の表面に残ったトナーを除去することに苦戦します。試してみてはゼロに帰るという繰り返し、先が見えないどころか一歩も進まない、塚田氏の両手はトナーの粉で真っ黒に染まっていました。もうだめだと思い、プラスチック、金属、獣の毛、ゴムなど、クリーニングで試したさまざまな素材を遊び半分で片っ端からトナーの上を滑らせた中で、ゴムを使用した時、奇跡が起きます。頑固なトナーの微粒子が根こそぎ削り取られ、ゴムの板の先にかき寄せられていました。この時、剃刀を当てるように断面の角を感光板に鋭角に当てていました。これが決め手となったのです。しかもこのゴムを鋭角に当てるクリーニング方式は、絶縁体のフィルムがコーティングされ表面の強度に優れたEプロジェクトの感光体だったからこそ可能になった技術でした。この報告を受けた田中氏は喜び、塚田氏の開発したゴムのブレードを組み込んだクリーニング装置「ブレード・クリーナー」はすぐさま特許が出願されたのです。
全体を通してEプロジェクトは過酷を極めました。蒸し風呂のように暑い試験室での耐久テストは、のちのキヤノン役員になる面々も、海水パンツ姿で汗だくになって働いたといいます。「右手にカメラ、左手に事務機」と、総力をあげて普通紙複写機の製品化に取り組んだプロジェクトは1969年に製品試作第一号機、NP-1100を完成させます。NP(NewProcess)と名付けられたキヤノン独自の複写システムを用いたNP-1100はこの時2つの見本市に出品されました。この見本市を終えた直後の社内報に田中氏はこのようなコメントを載せています。「機械としては試作品であるので、完成された装置とは言えないけれども、NPシステムとしてはゼロックス、エレクトロファックス等々と同様に実用化できるものであることが実証された。NPシステムの長所を生かした“NP複写機”を1日も早く世に出したい」と。ここまで研究・開発を続けてきた研究開発部は、より独立性を強めた「中央研究所」へと発展し、Eプロジェクトに関わるメンバーも60名を超えていました。その技術者集団を束ねる田中氏は、いつしか「複写機の鬼」と呼ばれ、プロジェクトは突出した団結力から「田中軍団」と呼ばれることとなります。
そしてついに、1970年、NP-1100を発売します。販売方法はゼロックスのレンタル方式とは異なる売り切り方式。一切の消耗品や部品交換、保守点検を保証する代わりに、コピー使用枚数に比例する料金を徴収するという、独自の保守サービス「TG(トータルギャランティ)システム」を導入しての販売です。
結果としてNP-1100は複写機事業に黒字をもたらすほどの売上とはなりませんでした。
しかしゼロックスの特許網を世界で初めて突破した時点で、NP-1100は十分に役割を果たしたと言えます。
NPシステムの特許が認められない? 特許戦争開始
NP-1100が発売されてから5ヶ月後、富士ゼロックスの株主でもあるランク・ゼロックスが、キヤノンのNP-1100システムに関する特許の取り消しをイギリス特許庁と、さらにオーストラリア特許庁に申請を提出。王者ゼロックスはいよいよ反撃を始めました。実際に使われていない技術でも考えつく限りの応用範囲まで特許網を張り巡らせているゼロックス。対して丸島氏はゼロックスとの特許戦争を戦い、勝利すると決意します。ゼロックスの特許と、NPシステムの明らかな違いを立証するためにはどうしたらいいか、丸島氏は必死に両者の特許公報を見比べました。「特許の争いというのは最終的には白か黒かで決着します。負けたら終わりなんです。負けたら会社が潰れる可能性だってあるんです。」重圧の中で丸島氏はアメリカで出願した自分達のNPシステムの特許に書かれているある言葉から突破口を見出しました。それを元に実証実験を行い、実験結果に気持ちが左右される日々が続きました。
1973年9月18日、この日は特許マンの丸島氏にとって生涯で最も緊張した日になりました。ランク・ゼロックスが申し立てた取り消し申請に対して、イギリス特許庁から送られてきた特許庁の決定書にはこう書いてありました。「ゼロックスの申し立ては、却下されました」。続いてオーストラリアやドイツでも同様にキヤノンが勝利を収めます。丸島氏は会社の存亡が懸かったNPシステムの特許を死守したのです。
世界トップクラスの複写機メーカーへ成長
キヤノンはNPシステムの特許を独占して使用するのではなく、世界に公開しました。そして、特許の取り消しを巡って、ゼロックスと争っている最中にもアメリカの企業から「御社の技術を買いたい」とライセンス契約の申し出を受けます。その額は100万ドル。Eプロジェクトが生んだ日本独自の技術に当時でいうと3億円以上の価値(※当時1ドル=308円。現在の価値に直すとおよそ6億円。)がつけられたことを田中氏は喜びました。単身で乗り込んだアメリカでの挫折。それ以来「複写機の鬼」となり仲間と共に実験に明け暮れてきた、その執念と努力がようやく実を結んだのです。
1975年、キヤノンは米連邦取引委員会(FTC)独占禁止の視点からゼロックスに、複写機関連の特許の公開を命じる同意審決を承認しました。王者ゼロックスの優位は揺らぎませんでしたが、普通紙複写機市場にはチャンスを求めて新規参入するメーカーが続々と現れました。
挫折を味わった技術者田中氏と、会社の日陰事業部で耐えた丸島氏、彼らを一つの目標に向かわせたのは不可能と言われ続けた普通紙複写機の開発でした。これを実現し、キヤノンは世界的にも有名な企業へと成長を遂げたのです。
元々あった技術のライセンスを取得して製造し販売するという手法ではなく、一からキヤノン独自の国産開発を行うことの苦労が伝わりました。田中氏は「論文を読む暇があったら特許を読め。報告書を書く時間があるなら特許(申請書)を書け。」という言葉を新人社員を含めたキヤノンの開発者全員に言い続けました。自らが体験した特許との戦いの凄まじさと、重要性を物語っていると感じました。複写機開発で得た特許に対する高い意識は、キヤノンの技術開発力を支える伝統となったでしょう。
誰もが人生の中で一番努力した日々という期間があると思います。筆者の場合は、高校生の時の部活や、受験などでした。このような熱い努力は大人になるにつれて、少なくなってしまいます。この本は、大人になりキヤノンに就職し、複写機に対しての思いを12年も持ち、成果として優秀な製品を開発した田中氏と、その仲間たちの執念と努力の日々がドラマチックに熱く語られています。今回のブログはあくまで要約のため、伝えきれていない部分ももちろんあります。詳細を知りたい方は、ぜひ一読されてみてはいかがでしょうか? 心を熱くさせるお話をあなたと分かち合いたいです。
書籍・著者情報
・書籍名:プロジェクトX 挑戦者たち(17) 壁を崩せ 不屈の闘志
・著者プロフィール:NHK「プロジェクトX」制作班
・概要:アメリカの企業「ゼロックス」といえば、複合機の代名詞。複合機が市場で流通し始めたばかりの高度経済成長期である1960年代に、複合機の王者である「ゼロックス」に挑んだ方々の努力と執念のノンフィクションの物語です。
・書籍の販売サイト
皆さんお待たせいたしました! 事務機器ねっとで取り扱っているメーカー各社の、創業者シリーズ第二弾です。デジタルカメラの最大手で、長い歴史と確かな技術が備わる商品を売り出す企業、キヤノン。カメラを趣味にしたいと考えていた場合、このメーカーは必ず選択肢に入れるでしょうね。今回はあなたもご存じのキヤノンの...
ニュースメディアやテレビのワイドショーでは次の自民党総裁選挙の話題で持ち切りですが、候補者のひとりである河野太郎衆議院議員は、実は現富士フイルムビジネスイノベーション(旧:富士ゼロックス)出身者だったことはご存じでしたでしょうか? そんな巷の話題から、事務機器ねっとで取り扱っているメーカー各社の創業...
事務機器ねっとでも提供している、複合機メーカーのシャープ。あなたはシャープといえば、何を思い浮かべますか? 筆者はやはり、テレビやスマホ、冷蔵庫やエアコンなどの液晶や家電でしょうか。生きてきた年代によってシャープに思い入れのある商品は違ってくると思います。創業者シリーズ第一弾ということで、今回は10...
印刷業など専門性の高いハイエンド向けの複合機を数多くリリースしているOKI(沖電気工業株式会社)。2021年4月1日付で独立分社化していた沖データが、沖電気工業株式会社と統合したことは記憶に新しいと思います。1881年の創業以来、140年もの長い歴史を積み重ねてきたOKI。その前身である明工舎の創設...